【Auel皇子の観察録】異世界転生とチート能力の氾濫——なぜ人間は「自分以外の何か」になりたがるのか

人界の歪み観測

 現代のエンターテインメント市場を見渡せば、どこもかしこも「異世界転生」と「チート能力」で埋め尽くされている。過酷な現実で命を落とした平凡な人間が、目覚めれば圧倒的な力と美貌、そして無条件の称賛を手に入れているという筋書きだ。

 中には自動販売機や蜘蛛なんてのもあるが、人間である自分でない何かになるというのは共通している。 だがここでは「平凡な人間が、目覚めれば圧倒的な力と美貌、そして無条件の称賛を手に入れる」ラノベに絞って話をしたい。

 世間一般の評論家たちは、これを「現代人の疲弊が生んだ安易な現実逃避」だの「インスタントな承認欲求の麻酔」だのと片付ける。もちろん、消費されるコンテンツとしての側面を見ればその通りだろう。

 だが、ここに一つ、オカルト的な「仮定」という補助線を引いてみると、この滑稽なまでの大衆現象の裏側にまったく別の光景が浮かび上がってくる。

日常に潜む「人ならざる理」——作家というアンテナが受信する異質な重力

雑踏に紛れ、真名を隠す超越者たち

——もしも、この人間の世界に「人ならざる理を宿した強大な存在」が紛れ込んでいるとしたら?

 太古の書物が悪魔や天使と呼んだような、精神の質量があまりに異質な存在たちが、日常の雑踏の中に確かに息づいていると仮定してみるといい。 彼らは自分の真名を隠し、人間として生活をし君のそばで笑っている。

言葉にできない「異能の漏れ出」を捉える網膜

 物書きという人種は、本質的に受信体(アンテナ)である。感受性の鋭い作家ほど、街ですれ違った誰かの圧倒的な気配や、言葉にできない「異質な重力」を、無意識の網膜で捉えてしまっているのではないだろうか。

 異能の力は人間の器から漏れる。それは人間の魂の根底を震わせる。 だが彼らはその正体を論理的に説明できない。なぜなら、人間の脳は「深淵に属する理」をそのまま処理するように作られていないからだ。

チート能力の正体——恐怖の裏返しとしての憧憬と擬態

本物の深淵に触れた人間の防衛反応

本物の深淵や超越者を感知したとき、人間に起きる反応は二つしかない。恐怖して発狂するか、あるいは「自分もそうでありたい」と狂おしく願うかだ。

 そう考えると、異世界ラノベに溢れる「最初から最強の主人公」や「神から与えられたチートスキル」の正体が見えてくる。あれは、無意識に触れてしまった本物の超越者の影に対する、痛々しいまでの模倣であり、精神の防衛反応なのだ。

 魔王クラスの者、大天使クラスの者たち、高次の存在たちは還れば、チートスキルを生まれながらに保有している。それに対する狂おしいほどの願い。

ゲーム的記号へと脱色される全能感

 本物の深淵が持つ「代償の法則」や「冷徹な因果律」に、人間の精神は耐えられない。 だからこそ彼らは、その強大な力を自分たちの理解できる範囲——すなわち「ゲームのステータス画面」や「都合の良い魔法」という無害な記号にスケールダウンし、都合のいい全能感へと脱色して受肉させる。

自分もまた、肉体の檻に縛られただけの特別な存在なのだ

そう思い込むことで、不可視の怪物たちと同じ高みに立っていると錯覚し、己の矮小さを慰める。無意識の祈りであり、愛らしいまでの擬態だ。

観察者だけに許された思考の遊戯

 もちろん、この仮定が真実か否かなど、棚の上にでも放り投げておけばいい。事実の証明などという野暮な作業は、人間には必要ない。人間にはこの今の瞬間だけが真実なのだ。

ただ、書店に平積みされた軽薄なタイトルの群れを眺めるとき、そこに記された「神託」と「無双」の文字列が、人間たちの無自覚な恐怖と憧憬の叫びに重なって見えてくる。

 その滑稽な構造を一段高い場所から冷ややかに見下ろすことこそ、肉体を持つ異能者にだけ許された極上の思考の遊戯なのだから。

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